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加納大尉夫人・オンバコのトク

佐藤愛子

日本文学 小説 佐藤愛子 2018年04月

昭和39年「文学界」に発表された「加納大尉夫人」は、日米戦争が始まる直前から終戦までの間、海軍大尉と婚約、結婚した関西の裕福な令嬢が夫との暮らしとその戦死、新しい命の誕生に直面して、喜びと悲しみに翻弄される5年間を描く。

昭和56年「小説新潮」に掲載された「オンバコのトク」は、北海道の片田舎に生きた一人の男の物語である。野の繁みで生まれたその男トクは知的な能力に劣りながら、不満や怒りを知らず、与えられた生を誠実かつ強かに生きていた。功利や損得に迷わされることなく、天与の性に従って自然自在に生きる人間のプリミティブな活力と悲哀を簡潔で力強い文体で描く。

六十年の間、人生の浮沈に従って書いて来たもの(中略)の中に二篇だけ、これだけはいい、と思えるものがあって(<はじめに>より)」と著者が自負する二作を敢えて現代の読者に問う!


小説を書くことを一生の仕事にしようと思い決めたのは二十五才の時です。それから九十四才の今までにいったい何篇の小説を書いて来たか、自分でもわかりません。覚えてもいないし、数える気もないのです。(中略)

心身共に老い疲れた今、読み返したとしたら、これを書いていた時の一心不乱、ひたむきな情熱が蘇って来て、懐かしいというよりも、いっそ悲しくなるだろうと思います。それでやっぱり、この二作も読み返すのがためらわれるのです。

はじめにより

佐藤愛子(さとう・あいこ)


大正12(1923)年、大阪に生まれる。父は俳人・小説家・劇作家の佐藤紅緑、母は大正期の舞台女優三笠万里子(本名横田しな)。

甲南高女卒業後、昭和18年に結婚し二児をもうけるが、戦後離婚。その頃から小説を書き始め、同人雑誌「文芸首都」に参加して本格的な創作活動に取り組む。昭和31年、32歳の時、同じく作家修業中の田畑麦彦と結婚。昭和35年「ソクラテスの妻」「二人の女」が連続して芥川賞候補、同39年「加納大尉夫人」が直木賞候補となる。この前後から、率直な語り口で世相を斬るエッセイも多く書くようになった。

昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞受賞、諧謔性と哀歓にとんだその作風が多くの読者に迎えられる。昭和54年には『幸福の絵』で女流文学賞受賞。 代表作に自らの特異な家族の荒ぶる魂を冷徹な作家の眼で描いた『血脈』(平成12年度菊池寛賞)、近作に二度目の結婚を回想し、夫だった男の人間性を尋ねて鎮魂の思いを刻んだ『晩鐘』がある。


ためしよみ

小説を書くことを一生の仕事にしようと思い決めたのは二十五才の時です。それから九十四才の今までにいったい何篇の小説を書いて来たか、自分でもわかりません。覚えてもいないし、数える気もないのです。

(中略)

心身共に老い疲れた今、読み返したとしたら、これを書いていた時の一心不乱、ひたむきな情熱が蘇って来て、懐かしいというよりも、いっそ悲しくなるだろうと思います。それでやっぱり、この二作も読み返すのがためらわれるのです。

(<はじめに>より)

 昭和十六年のことである。

 それは五年前に始まった支那事変(とその当時は呼んだ)が膠着(こうちゃく)状態に陥ったまま、いったい戦いは勝っているのか、勝利の見通しはついているのかわからぬままに、人々の生活からは次第に活気が失われつつあった時代であった。米や砂糖は配給制になり、一部ではもはや買い溜(だ)めや闇売が始まりかけていた。しかしそうかといって、人々は、はっきりとこの戦争は負けるかもしれない、などと思っていたわけではなかった。見送りの日の丸に囲まれた応召兵士の中には明らかに意気銷沈(しょうちん)している者や。空(から)元気の歌をがなりたてている者もいたが、勝つと信じて国家のために勇んで出発して行く者もまだ少くはなかった、女たちは千人針を盛って駅や街頭に佇(たたず)んでいた。盛り場はまだ栄えていたが、困苦の第一波は庶民階級の家庭生活からまず押し寄せはじめていた。(・・・)

 小村徳太郎は小村トメの息子である。

 兄に英吉がいる。

 その他に木田英四郎という兄と、タマという姉がいる。木田英四郎とタマの父親は木田英助である。

 英吉と徳太郎の父親は誰かわからない。

 徳太郎には妹もいる。しかし妹の名前はわからない。妹の父親の名もわからない。

 小村トメはこの町では「オンバコ」と呼ばれている。

 いつから「オンバコ」と呼ばれているのか、「オンバコ」とはどういう意味なのか、誰にもわからない。徳太郎にも英吉にもわからない。「オンバコ」にはわかっていたのかどうかもわからない。

 徳太郎は「オンバコのトク」と呼ばれている。(・・・)


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